あいにくタムラは不在です
成相肇(美術評論家)
タムラサトルの作品は、20 世紀初頭のダダ、シュルレアリスムらに端を発した「ナンセンス・マシーン」の系譜にあるようだ。さて、それでは彼はいかにして彼の生きる時代ならではの仕方で、滑稽な機械を差し出してくれているだろうか?彼の機械は、どのような仕組みで成り立っているか?
まず、タムラの作品は常に動力を用いたひとつの「装置」である。象徴として描かれるのでもなく停止したオブジェとして提示されるのでもなく、彼は必ず自動運動を見せる機械そのものを作り出す。マン・レイによるメトロノームを使った作品をはじめとしてその類例は多いが、タムラの作品は歴史上のナンセンス・マシーンたちにあったような作品化に伴う詩的言語を徹底して排除することで、それらとはっきりと袂を分かっている。例えばピカビアにとって機械部品が「母なしで生まれた娘」であったように、またデュシャンにおいて「花嫁」であり「独身者」であったように、そしてフィッシュリ=ヴァイスにおいて不毛なコミュニケーションの縮図であったように、それらはいつも作品外に言及する比喩性や期待を孕んでいた。対してタムラの作品は、何よりもそのループ構造によって、いつまでも終わりを見せることなく自己言及し続ける。ここでは一切の目的が失われている。いや目的がその作品の中に織り込まれてしまっているのだ。タムラは、アウトプットを再度インプットへフィードバックさせて、それ以上でもそれ以下でもない記号の単体、いわば極小の円環を作り上げる。9kg の鋳物の象はただ9kg であることを示すためにはかりに乗せられ、はかりは上に乗った象が9kg であることをただ示す..私たちはその数値のやりとりの往還を見るに過ぎない。旗はただバタバタと音を立てて回転する。何のために?旗がバタバタと音を立て、回転している姿を見せるために。いや「ために」という表現さえここでは不適当だ。タムラは何の目的も持ち得ず、何も言っていないのだから。
この、「おしゃべりな沈黙」とでもいいたい特質は、作品が名付けられないことによってさらに強められる。彼の作品のタイトルはいつも無愛想だ。《9kg Elephant》《Standing Bears Go Back》……見えているものを直裁に示す以上のものはおよそ見つからない。機械がそのもの以上の何かへの期待を与えられることがない限り、「命名」、つまり有機的な生を与えられることはないのだ。ナンセンス・マシーンの先達が、未知のものを未知のままに差し出すことで観者の創造力を煽ったのに対して、タムラは既知のものを既知のままに差し出す、というべきか。タムラの作品からは主観がなるべく排され、個性の因子はことごとく抜き去られる。装置はいつも無骨で装飾されることはなく、仕組みは一見して明確にわかるようにされている。はかりに乗せられる鋳物は塗装を剥がされ、象にせよ熊にせよ、登場する動物たちはなるべく物語の連想を誘わない匿名的なものが選ばれる。近作の《接点》シリーズは電気が流れる様を大げさに見せるだけの作品だが、電流ほど匿名的な素材もあるまい。制作者という主体は限りなく不在で、さしあたり「作品」と呼ばれるそれらは私たちの目の前にただただ投げ出され、からからに乾いたまま置き去りにされている。
ループし続ける自動装置であること、名付けられないこと。このふたつの条件によって、タムラの作品は外への方向性を持たないありのままの存在、もしくは完全な不在であろうとする。おしゃべりな沈黙、目覚めながらにして目を閉じたこのカラクリ仕掛けは、電気が流れ続ける限りそこに留まり続け、いつまでも充たされることはない。何ものにも従属することなく、自らのうちに出発と目的を折り込み閉じ込めてしまっているために、それはずっと、いわば不可能なものとして在る。
かつて高松次郎は、「この七つの文字」という七つの文字によって、すべてが過不足なく1 枚の紙に収められた、入口も出口もない真空パックの記号を生み出した。タムラの機械はダダやシュルレアリスムのそれよりも、むしろ高松のような洗練されたコンセプチュアリズムにより近い特質を持っているが、すべてをそぎ落としたストイックな完結性、己が尾を食むウロボロスのごとく美しき志向性を彼は目指しはしない。タムラの作品は中心性を高めるためにゆるがない円環を描くのではなく、独楽のようにときに不安定に、回転しながら内と外の境を舞うのだ。マイクから出た音をスピーカーが拾うとハウリングが起きるように、内と外が循環するフィードバックにつきものの言葉にし難いノイズにこそ、彼は固執する。タムラはあくまでかろやかにこのノイズ..私たちが「ナンセンス」と呼ぶことで片付けてしまっているもの..を操って、巧みに作品に笑いをまとわせる。
いかなる「無意味」であろうと、それが「作品」である限り、ギャラリーや美術館といった場と観者の目は自ずと意味を与えようとするだろう。しかし生真面目な問いはつねにタムラのかろやかな動きにかわされてしまう。動き続ける者、さかしまにふるまう者、笑いを引き起こす者、すなわち道化は、秩序の世界へ取り込もうとする触手からいつも自由だ。私たちはなす術なく脱力して笑うしかなく、そしてその笑いを喜ぶしかない。笑うという行為だけが、排除すべきとも引き込むべきともつかない境界上にあるものをそのままに認識する唯一の方法であるのだから。
「体制」とか「権威」だとかを否定することがもはやラディカルであることが無効になってしまった場で、さらにラディカルであるにはどうすればよいか。新たな比喩を発見しようと試みる道はすでに隙間なく踏みならされてしまい、今や冒険は退屈なばかりにも思える。ならば道に踏み出すことなくぐるぐると立ち往生することこそ、現実との確かな関係を取り返す術ではないか?さかしまにふるまい、身を翻すことでタムラは問題を解決しようとしている。柔軟性をもって、Yes とは言わない。そしてNo とも言わない。
原因の不在、手段の不在、結論の不在、不在、不在、不在……。まるでそこにはぽっかりと穴が開いているみたいだ。想像してみてほしい、タムラがいなくなっても、その作品群が動き続けている姿を。いや今すでにして、カタカナの名に身を隠した作者は、ここにいないのだが。
「 Domein of Art 1 タムラサトル展 」リーフレットより